生きたように活かされて
愛知県弁護士会会員 内 河 惠 一

初めの30年

 私は、いつの頃からか、自分の人生を30年毎に区切って考えるようになった。中学を卒業して社会人となり、その後転々と7つの仕事を経て、ようやくたどり着いた「人生再出発の時」、世話になった多くの方々に恩返しをするためどんな仕事に就こうかと考え、無謀にも弁護士を目指した。もっとも、金とコネと学歴のない人間が、人並みに「恩返し」を考えた場合、当時の私の環境では弁護士しかなかったというのが正直なところである。それまでは、病弱の父がほぼ寝たきりの半身不随の母の身の回りの世話をし、生活保護の助けを借り、私からのわずかな仕送りで辛うじて生活をしてきたというのが我が家の実態であった。私の26歳の時、母を世話をしていた父が先に逝き、私が母の身の回りの世話をしようとしていた時、嫁いだ姉の主人が母の面倒を見てくれることになった。自由になった私は、ようやく私自身の生き方を考えることが出来た。それが遅ればせながらの「再出発のとき」であった。私の人生の最初の30年は、戦時・戦後の正に模索の連続であった。

仕切り直し

 20年掛ければ何とか合格するだろうと思った司法試験に運良く合格し、31歳で弁護士稼業を始めることになった。司法研修所を終えた時、アメリカ人の事務所勤務が長かった私は、わずかな英語の能力を活かして渉外弁護士の道に入るか、修習生時代に関与した四日市公害事件の患者の立場に立つべきか、深刻な岐路に立ったが、思い切って四日市公害被害者弁護団に参加したのがその後の私の弁護士人生の方向性を決めたと言っても良い。60歳の還暦の時、自分の人生の原点が「貧しさ」にあったことを確認しつつ、人生をフィニッシュする最後の30年が始まった。法律扶助協会に関わる中で「法テラス愛知」の立ち上げに関与し、さらに弁護士会の高齢者・障害者問題(アイズ)に関わり、戦後補償問題、平和問題、加えて、反貧困のための市民運動等に与することとなった。

良きパートナーを

 ともあれ、こんな弁護士生活を続ける中で、老後の設計をすることは殆どなかった。はっきりしていることは、国民年金のみの稼ぎのない弁護士の老後はそれほど甘くないということだ。それを補う方法は、安易ではあるが生命保険・医療保険、加えて「弁護士国民年金基金」等になろう。しかし、なんといっても弁護士は個人事業である。その中で経済的にも精神的にも自分を支えてくれるのは、仕事の上でのパートナー以外にない。月並みではあるが「友こそお金に換えられない財産」である。今、若い弁護士らと力を合わせながら、こっそり自分の運命を天に委ね、最後の現役弁護士生活の1日1日を噛みしめ、感謝の気持ちでいる。
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陽だまり 2012 No.40より